昭和40年8月7日 朝の御理解 


 今朝から、おかげを頂いて、昨日まで、足や腕が悪かったんですけれども、おかげを頂いて今日は足も、普通と変わりません。手にも力が入ります。ところが、今朝から、2階から、そんなことですから、あの降りていましたら、色んな、いつも、(?)手も良い足も良いと思うておるもんだから、手すりも捕まえんで降りよった。
 あちらが電気もつかずに暗いところでしたもんですから、んー、ご承知のように私が降りてくるあの橋が非常に急なんですよね。ですから、その大体、手すりは持たなければ危ないのですけれども、今日は、手すりも持たずに降りておりましたら、まあ一段ある、その、最後の段のところをもうこれでお終いと思うてから、下に下りて、危なくも向こうのほうの、頭をぶつけんばっかりにあの、まあ、おかげでぶつけはしませんでしたけれども、あー、危うく、打つところでございましたが、そういうところから思うですね。
 
 本当に、どうもないというのは確かにおかげなのですけれどもね、おかげなんですけれども、どこにか慢心が出来ておる。どこにか、安心が、安心のようであって慢心がでけておる。
 いわば、手すりも捕まえずに、自分で降りようとする。ね。そこに私は間違いがある、起こってくるのじゃないかと思うですね。
 信心させて頂いておりましても、何か心の底から願わねばならない、縋らなければおられない、といったようなときには、中々神様という信心という、手すりを外しませんのですけれども、信心をしておりましても、あれもこれもとおかげを頂きすぎておるような順調の時には、決して、その手すりを捕まえずに、いわば、神様を外しておりますことが、私はあるんじゃないかとこう思うですね。
 そしていわば、怪我を致しております。それでは、勿論ですから信心も進みません。
 そこでんなら、私共はいつもその難儀な、「金光様」というて、いつもおすがりしておらなければおられないといったようなです、難儀な事ばかりあるという事がです、また、おかげというわけでもないのですけれども。
 どうでも一つおかげを頂きまして、心の底から、「金光様」を唱え指せてもらい金光様という手すりを外さんですむというおかげを頂く為に、いよいよ実意丁寧な信心をさせてもらわなければならないと思うですね。

 人間の心の中には、善と悪、悪とが一緒に同居しておると言われます。いや実際にそうなんです。ね。片一方の方には、こう言う心が神心かと、こういうような心が神様の心に通うようなものじゃろうかというようなものが確かにあります。
 かと思うと本当に、神様が目を背けなさるだろう、本当に神様が悲しみなさるだろうといったような心が私共の心の中にはあるという事です。ね。清潔な心があるかと思うと、不清潔な心がある。ね。本当に浅ましい心と、いうなら、有難い心とが、一緒に同居しておる。
 信心とはそういうような、んー、心を自分自身の心の中に、本気で見極めさせて頂いて、いよいよ深く広くそこを、分からせて頂くということ。おかげを頂きましたら、信心という手すりを取り外すような事は出来ません。ね。こういうような自分と、こういうような私というものをです、見極めさせて頂いたら、神様におすがりし、神様にお詫びし、(?)心というものがです、ね、いつも、心の中に金光様を唱えさせて頂いておらなければおられないのであり、金光様という手すりを外されんのです。
 
 そこから、私は、まあ、人から見てもです、本当に謙虚な、実意丁寧な、信心が出来るのじゃあなかろうかと、そりゃ自分の心の中には有難い。その有難いというものが、おのずと実意丁寧な、あー、姿に、ね、形になっておるような場合は、これはいよいよ有難い。
 実が入れば入るほどいわばかがんでおる稲穂のように、有難いというものが自分、形の上でいうならば、地を低うしておられるという事。ね。
 けれども、自分自身のその有難いといったようなものがです、確かにあるのだけども、その反面には確かに、善と悪とが同居しておるという事実を見た時にです、その悪の方を見た時です、本当にこのような私、私のような浅ましいとこういうような時にです、お詫びしぬかなければおられません、お詫びし抜かせて頂いておる時には、本当に謙虚になっておらなければおられません。
 あいすみません、すみませんというのである。ここのところが私あの、( ? )勿論有難いというのが、あー、そいういう態度になっているという事、それは有難い。けれども、人間というのはそういうばっかりではありません。ね。
 信心して、お徳を受けるというのは、そういう有難いという心をいよいよ、高めていく事なのですけれども、いよいよ、心の中にある、悪の心。ね、それに取り組んで、すみませんすみませんとただ言うておるだけではなくて、そういう心をいよいよ本気でです改まらせて頂くというところからいよいよ、神様のご信用、ご神徳というのは、そういう人達が頂いていくのである。ね。

 だから、本当にそこのところの信心に目指させて頂く、のが本当なのですけれども、私共、なかなかそこが出来ません。今朝からの、私の、どこもどうもないという時ほど、実は有難いのであるから、ね、その有難いときにいよいよ有難いという気持ちであれば、手すりをはずすわけにはまいりませんのですけれども、それがうかつにして、ね、自分で降りきるような、自分でできるような、危うく怪我でもしなければならんといったような事まで、冷っとするようなことまでになってくるのではないかと私は思うのです。ね。
 本気で自分を見極めさせてもらうと。いくら見極めた見極めたというてもです、その人の実意がね、その謙虚さといったものがです、もし見えないとするならです、それは見極めているとは言われませんません。見極めれば見極めるほど、例えば、言葉遣い一つの上にでもです、それが、現れてこなければそれが見極めているとはいえません。
 勿論態度でもそうであります。自分がよかこつの風にしておる時にはです、やはりそういうような、あー、いわば、怪我の元を作っておるときであると分からせてもらわなければいけません。
 確かに私共の心の中にはいうならば、善と悪とが同居しておる。ね。ですから、もう本当に一瞬の間にでもですね、有難いなあと思うその心の目を見ておると思うと、一瞬の間に、汚い方の心が表に出ておるような場合があります。
 ね。そういう時にその心が人間だから当たり前なんていわずにそれを本気で捕まえ(?)なければ相済まんことだなあと言うことになる。同時にそれが日々の改まり第一と仰る改まるということにそれが、御神徳を頂いていくところの神乍な道というのがそこから開けてくるという風に思うです。

 どうぞ、皆さん、今日は自分の言うておる事や、態度の中からです、ね、もう自分で中々きがつかないないのですよ。えらそうな事を言うておったり、えらそうな態度をとっておったり、俺がという我が出ておったり、ね、そういう心を一つ心してから、そういう心をそういう態度やら、表現をです、ね、慎ませて頂く、(?)もらう。
 同時に自分自身の悪の方の心というものをです見極めさせて頂いて、ね、自ずとすみません、神様あいすみませんと言い続けておられるような一日でありたい。
 もう今朝、起きる早々から、こういうような事がありまして、私それを感じるのです。ね。本当にそういう姿こそ、神様も喜んで下さるだろう、人が見てからが第一素晴らしいですね。本当に私、だれの前でもすみません、すみません、というたような態度こそ、ね、お詫びしきっておる態度こそ、私は信心をさせて頂く者の本当の姿でなければならない。
 それは勿論、高度な信心に進ませて頂いて私共が有難いなあと勿体無いなあというその、有難いという思いの表現がです、姿勢がそういうような、実意丁寧な態度になればまた、いよいよもって有難い。
 これなら、お徳を受けて行くことの出来る、私は、今朝実感させて頂いたような訳でした。                               おかげを頂きました。